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明治の初め,保木口手呂谷付近にあった島田屋敷という所で,寺小屋を開いていた師匠は,大人には謡曲を教えていたといわれます。当時から東上田では謡曲が流行っていたことを,現在も数多く残っている謡本の数からも想像できます。また,義太夫本は江戸期のものが数多く残っています。 これらは今流に解釈すれば歴史物語と歌謡が一体になったものですから,人々の中に入り込みやすい娯楽的要素をもっていたのでしょう。酒の席などで喉を競い合ったものと思われます。
大正初めの1 月のS 氏の日記から,当時の青年層の娯楽らしきものを抜粋してみます。 「7 日…拙宅2 階で裁君と小生とで吉田君を招して大宴会をやる。1 升飲む。…」 「15 日…湯之島高月座へ芝居見に行く。帰りに中川君の祝宴見て帰ると2 時。…」 ※高月座は温泉寺を会場に開催された芝居 「18 日…東禅寺観音様参りに行く。…」 「19 日…夜撃剣稽古あり。…」 「23 日…夜百人一首等をして遊ぶ…」 「25 日…夜奥村君来て…泊まる。…」 「27 日…晩は小玉様で赤飯。県教育会回覧文庫,今井先生の本を読む。…」 このように,仲間との酒宴や出入り,芝居見物,お参り,撃剣(木刀・竹刀で相手をうつ護身の剣術)稽古,読書などは,毎月ほぼ決まったように繰り返されています。季節によって,仲間や兄弟たちと釣りや山菜取りに出かけ,「釣った魚で一杯」,「採って来たキノコで飯を炊いて食った」などの記事もあります。また,休みには,「…大正堂にて尺八稽古を終えた後,ライオン歯磨1 袋,ミツワ石鹸1 個,帽子1 個を買って帰る…」,「御岳や乗鞍登山」,「平湯への湯治」とレジャー,スポーツや趣味,ショッピングも含まれ,結構楽しんでいた様子がうかがえます。 この時代を「テレビもラジオもなく…」などと今の時代と比べて「娯楽とは縁が遠かった」ように表現することがありますが,どの時代の人々も,それぞれに時代の中で楽しみを見出していたに違いありません。もし今との違いをあげるとすれば,当時は仲間や地域の人々がともに楽しむ娯楽であって,今のように個人や家族で楽しむ娯楽とは大きく違っていたことでしょう。(T) 【参考文献】『翠峰日記』 (第5部「東上田の民俗」より) |