vol.1 「現代の隠れ里」 岐阜県 馬瀬村
隠れ里
子供の頃に私が住んだ家は、南北に流れる川とその東西に連なる山々に沿った、少しばかりの土地にありました。そのために、見上げる青空も南北に細長く、西から昇った太陽はその細長い空をあっと言う間に横切って連なる東の山々に沈んでしまう。毎日、朝から晩まで遊び呆けていた小学生の頃はそんなふうに思っていました。
そんな山々に囲まれ日がな一日を過ごしては、「あの山の向こうには何があるんだろう」と思いを巡らし、その空想の続きを図書館の冒険物語の本の中に求めたり、地図帳を開いて「海まで百何十キロメートル」と縮尺から距離を割り出したりしては、まだ見ぬ未知の世界へ思いをめぐらせていました。
未知の世界は、理想郷というあこがれに姿を変え、昔から様々に言い伝えられても来ました。「隠れ里」もその一つです。昔、猟師が獲物を追いかけ深く山中に迷い込んだ時。または大雨の後、増水した川上から箸やお椀が流れて来て、不審に思った村人が上流深く分け入ってみた時。そこには争いとは無縁の平和な暮らしを営む「隠れ里」があったという話です。そこに迷い込んだ者は里人から歓待を受け、心和む時間を過ごします。しかし、自分の村に戻った後、二度と尋ね当てることは出来なかったと言います。
この隠れ里については単なる伝承だけではなく、実在していたという話も残っています。
「享保年間(1716~1735年、徳川吉宗の時代)、遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)の犬居川(宮川)で洪水があった際、上流から膳椀などの調度品が流れ着いたのを不審に思った村人が役人に届け出ました。役人が川をつたって尋ね行くと、そこには家が五、六軒あり、男女五十数人が住んでいたと言います。里人の髪型は古風で、衣装も見なれない感じがしたので役人が里の由来などを聞いてみました。すると先祖は京の都の殿上人(てんじょうびと、宮中に仕える人)で、世を避けてこの山中に移り住んでから当代で十六代目となり、この里を「京丸の里」と言い習わしているとのことでした。役人が「それならば何か京の都より伝えられた物があるであろう」と尋ねると、太刀一腰、長刀一振、丸鏡一面、親鸞聖人の御筆物二幅、「家集詠草」という書物が十冊ばかり出て来ました。また、里には僧侶もおらず、葬儀の際には親鸞聖人御筆物の阿弥陀の画像を導師とするとも言いました。」(「遠山奇談」より。原本は寛政10年(1796年)刊)
この言い伝えにある、「僧侶もおらず阿弥陀画像を導師とする」ことにより、当時、京丸の里は「仙境の地」であると言われましたが、山深い飛騨(岐阜県)の山村でも同様なことが行われていました。
日本で最も美しい村
さて、「日本で最も美しい村」をご存知でしょうか?
近年、日本では市町村合併が進み、小さくても素晴らしい地域資源を持つ村の存続や美しい景観の保護などが難しくなっています。「日本で最も美しい村」は、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る「日本で最も美しい村」連合に加盟をしている村や地域を言い、「日本で最も美しい村」連合は2005年10月に7つの村からスタートしました。 これらの村や地域は、現在の「隠れ里」として、人々のふるさとへのあこがれや郷愁を受け止めてくれているように私は思います。そのひとつに「馬瀬村」(現、下呂市馬瀬)があります。
馬瀬村は、東の飛騨山脈と西の白山山脈に囲まれた、岐阜県のほぼ中央に位置し、南北に流れる馬瀬川に沿って細長く伸びています。しかし、その広さは南北に28キロ、幅約4キロと実に小さな村です。子供のころ「なんで馬瀬という名前やの?」と、同じ郡内の町に住んでいた私は父に尋ねたことがあります。そのときは「馬の背のように細長いからやでないか」と教わりましたが、「馬の背ほどの広さしかない村」ということではなかったかなとも思います。
その小さな村は、周辺の町村からは千メートルを越す山々で隔たれ、その山々には古来より開かれた険しい峠道がありました。現在では、国道257号線がお隣の萩原町花池あたりで国道41号線から分岐し、村の東側から「新日和田トンネル」という立派なトンネルを抜け、自動車であっと言う間に越すことができます。国道257号線はそのまま村の中心を馬瀬川に沿ってさかのぼり、旧馬瀬村の中では一番川上(北)にあたる「川上(かおれ)」地区まで美しい村の風景の中を走ります。そして今度は「かおれトンネル」を抜けると清見村(きよみむら。現、高山市清美町)へとつながり、その先は「せせらぎ街道」と呼ばれる道となって、飛騨高山の街まで季節それぞれに美しい風景を楽しみながらドライブすることができます。
今度は川下(南)からの道をたどってみると、南隣の金山町(かなやまちょう。現、下呂市金山町)内で国道256号線から分岐する県道86号線が馬瀬川をさかのぼってきます。ところがその途中、ちょうど金山町から馬瀬村に入る少し手前、突如山中に驚くような光景が現れます。「岩屋ダム」です。昭和四十八年に着工された岩屋ダムは、たくさんの岩を積み上げて築かれた、高さ127.5メートル、幅366メートルの全国でも珍しいロックフィルダムです。3年9ヵ月の歳月をかけ昭和51年に完成しました。遠目には、まるでピラミッドのようにも見える巨大なダムが馬瀬川を堰き止め、「東仙峡金山湖」と呼ばれるダム湖を形成し、名古屋を中心とした東海三県の電力、用水需要をささえる「東海の水がめ」としての役割を担っています。その岩屋ダムを過ぎてダム湖を跨ぐ立派な「馬瀬大橋」を越えると馬瀬の南端、「下山」地区です。
馬瀬村の歴史
馬瀬村は一番川上の「川上(かおれ)」地区から川下の「下山」地区まで、全部で十一の地区に分かれています。江戸時代にはこれらの地区が十ヶ村にわかれ、それぞれの由緒には様々な伝説がありました。源氏ゆかりの者が開いた村であるとか、平家の落武者伝説などといったものです。
また、馬瀬村では二十ヶ所を越える古代遺跡が見つかっていて、大昔に人々が暮らしていたことはわかっています。しかし、その後はいくつかの伝説が伝わるのみで1400年代の後期まで馬瀬の様子を知る資料はありません。
現在にまで残る各地区のこまかな地名、いわゆる小字(こあざ)を見てみると「垣内(かいと)」とつく小字名がいくつか見られます。川上地区の「田代垣内」、中切地区の「神垣内」などがそうです。この「垣内」という地名の由来は、古代から中世にかけて有力者が比較的小規模な開墾地を囲い込んで占有を示したり、その屋敷のあったところを指すとも言われます。そう考えると、鎌倉時代(1192年~)の頃にはある程度の開墾が進んでいたと考えてもよさそうです。
「数河」地区に桂林寺というお寺がありますが、その開基仏(寺院を創始するにあたり安置された仏像画)「方便法身尊像」の裏書に「明応3年12月28日下付」「願主 奈良谷円実門徒 濃州郡上郡馬瀬郷本郷釈円乗」という文字が見られます。これは明応3年(1494年)に寺が開かれ、当時馬瀬村は美濃の国(濃州)に属していたということがわかります(馬瀬が飛騨に属するようになったのは、金森氏が飛騨を攻めた天正13年(1585年)の頃からと言われています)。
また、「願主 奈良谷円実」とは郡上の武士であった鷲見彦次郎という人で、浄土真宗(本願寺)の蓮如上人に帰依し善宗の法名と、飛騨の門徒としては始めて(文明十七年、一四八五年)方便法身尊像を授与された人物で、後に「円実」と改名しています。この円実が清見村(現、高山市清美町)の楢谷に道場を開き、現在の楢谷寺(ゆうこくじ)となっています。この円実の門徒であった「釈円乗」が桂林寺の「願主」と言う訳です。そう考えると、やはり昔は郡上(美濃国)につながりが深かったのでしょう。
その後、文書の上で馬瀬の歴史をうかがえるようになるのは江戸時代になってからです。馬瀬に残る一番古い資料は元禄8年(1695年)の土地台帳で、桂林寺の過去帳の付け出しは元禄12年(1699年)からです。村人たちの暮らしについての記録が見られるのは、すべてこの後からになります。
想像をたくましくすると、源氏の末裔であるとか平家の落武者伝説など、もし何らかの理由でその出自を隠さねばならなかった事情があったとすれば、確かに人々の暮らしがあったにもかかわらず記録が無いのも・・。平家滅亡の壇ノ浦の戦いが1185年、その頃に郡上の長瀧寺の修験者が馬瀬郷数河の地で腐り果てたお堂より木像を見つけ、それを本尊として天台宗の教えを広めたと言う伝説が馬瀬にはあります。1180年、平清盛は兵庫県の能福寺という天台宗の寺で剃髪入道し、平家一門の祈願寺に定め、墓所もそのお寺にあると言います・・。「垣内」の地名もそのころに開墾された所以だとしたら・・。「本当に優秀なスパイは歴史に名前なんか残さない」とも言いますが・・。考えすぎでしょうか。
戦争の記憶
江戸時代が終ると飛騨の国にも明治維新の波が押し寄せます。明治元年(1868年)5月、飛騨国は飛騨県となり、その後、高山県、筑摩県、最終的には現在の岐阜県へと統廃合を繰り返す中、馬瀬旧十ヶ村は合併をし「馬瀬村」となります。途中、上馬瀬村・下馬瀬村の二ヶ村へ分割しながらも明治22年(1889年)7月、再び一つの馬瀬村として施行され、平成15年(2004年)3月に旧益田郡(小坂町・萩原町・下呂町・金山町・馬瀬村)が合併をして下呂市となるまで、明治・大正・昭和・平成の時代を過ごすことになります。その間、日本は日清・日露、そして大東亜戦争と世界を相手とする戦争を経験し、馬瀬の村にも暗い影を落としました。そして、戦後の高度成長も馬瀬村に大きな影響を与えたのです。
新日和田トンネルの馬瀬側の出口のすぐ脇には、戦没者の慰霊碑が建てられています。馬瀬村の有志の方々により建てられたその碑には、日清・日露、大東亜戦争へ出征し亡くなった村人たちの名前が出身の地区ごとに刻まれ、日清・日露では24名の、大東亜戦争では113名の村人の名前が刻まれています。
慰霊碑のすぐ脇には旧道に続く道があり、その先には現在のトンネルよりも小さな旧日和田トンネルがその入口を閉ざされて眠っています。昭和12年に開通した旧トンネルは、新トンネルよりも90メートル高い海抜703メートルのところにあり、車がやっと一台通ることができるような小さなトンネルです。しかし、このトンネルが出来るまではさらに高所を登る険しい峠道を越えるしか往来の手立てはありませんでした。
戦争の頃、この日和田峠で村人は出征する兵士を見送ったと言います。そして、白木の箱に入れられて帰って来た者を、この峠まで迎えに行ったそうです。
旧日和田トンネルは、トンネルに至る道も急峻で曲がり道も多く、冬場などは特に交通が困難でした。戦後、自動の普及が進むなか昭和五十三年(一九七八年)に現在の新トンネルが開通し、今ではいつでも安全に峠を越えることが出来るようになりました。車で走り抜ければあっと言う間のトンネルですが、その傍らには村の悲しい歴史が刻まれているのです。
失われた名字
馬瀬に住む人々の名字を見てみると「二村(ふたむら)」という名字が圧倒的に多く、現在でも全体の十七%くらいを占めています。その由緒について馬瀬は源氏系の人々によって開かれたためという言い伝えがあります。その次に多いのは「大前」「小池」で、これは美濃国の郡上に由来すると言う人もいます。そして、それらに次ぐ勢いで多い名字が「森本」でした。しかし、この名字は昭和五十一年にほとんど見られなくなってしまいました。
森本姓のほとんどは、馬瀬川の最下流域の「下山」地区に住んでいました。現在この下山地区に住む人は誰もいません。昭和四十八年に着工した岩屋ダムが同五十一年に完成すると、下山の集落はダム湖の湖底に沈んでしまったのです。当時、下山地区には二十四世帯が暮らしていましたが、そのすべてが村外に移住しました。その二十四戸のうち十三世帯が森本姓でした。下山の人々は、名古屋圏を中心に増大する、電力や用水需要をまかなうために苦渋の選択を迫られ、戦後高度成長期の最後に着工したダムが、ふるさとを二度と帰れない場所にしてしまったのです。かつての下山集落があったダム湖湖畔には碑が建てられ、移住を余儀なくされた全世帯の名前とともにふるさとへの思いが刻まれています。
「「日本で最も美しい村」へ
現在の馬瀬は、残された美しい自然と山村風景を大切に守りながら、新しい村作りに取り組んでいます。村の全域を「馬瀬地方自然公園」と呼び、そこに暮らす人々が地域づくりの事業に参加・協働する指針(合言葉)として「馬瀬地方自然公園・住民憲章」を定め活動しています。これはフランスの小さな山村で実際に住民が主役となって成功している「美しい村」を守るための取り組みを、五年に渡りそこを訪れて調査した馬瀬の人々の経験をもとに応用しているものです。
大切に守られてきた全国有数の清流馬瀬川の鮎は「日本一の鮎」として選ばれたこともあり、釣りシーズンには五万人もの釣り人を全国から集めています。山間に湧く温泉も、豊かな山林や清流の眺望を楽しみながら満喫することができ、村のあちこちには美しい山村風景が広がり、訪れる人を心のふるさとへと誘います。華美な観光施設はありませんが、ありのままをより美しく守ろうとする村人の思いが伝わります。平成十九年に馬瀬地域は『日本で最も美しい村』連合に加盟し、全国の美しい村と連携して日本の美しいふるさとを守る決意をあらたにしました。
かつて「隠れ里」の人々は平和で美しい生活を守るために、人々の往来を避け隠れ住んだのかもしれません。外の人々は、そこに憧れながらも時代の流れに美しい村を巻き込んできたのでしょうか。しかし、現代の「隠れ里」は美しいふるさとの暮らしを守りながら、そこを訪れる人々を受け入れ、くり返し足を運ばせてくれます。その思いに、ふるさとの本当の姿を見るような気がしました。