vol.3 「乗鞍さん 御岳さん ありがとう」 岐阜県高根村
「高根小学校へ」
昭和45年4月、父は高根小学校に教員として単身赴任しました。母と、三歳になる兄、九ヶ月の私を自宅に残し、小学校近くの教員住宅に一人住むことを決めたのは、時を同じくして村の小児科医師が村外に転出したからでした。
当時、高根小学校のすぐ脇では高根第2ダムとその発電所が営業運転を開始したばかりでした。戦後の高度成長期、急速に増大した電力・水資源重要に応えるため飛騨の各地では大規模なダム開発が行われてきましたが、ちょうどその最終段階にさしかかったころのことです。
「道の村」
旧高根村、現在の高山市高根町は、女工哀史の映画でも有名になった「野麦峠」(*1)など、険しい山道が飛騨と信州とを結ぶ山間の小さな村でした。
昭和53年の資料を見ると、村域は東西18㎞、南北20㎞、面積220.72㎡。そのうち山林は97%、耕地面積は0.5%にすぎませんでした。少ない耕地もその67%が畑作地、お米は村人の食べる分を賄うのも大変だったのです。さらに海抜1,000m以上の土地が村の95%を占め、そんな村内でも最も高地にある野麦集落は海抜約1,300m、稲作可能限界を超えており、耕作居住地としては岐阜県下で最高地に位置していました。
※1「野麦峠」
野麦峠は海抜1,672m、野麦とは峠一面をおおう熊笹のことです。飛騨と信濃をむすぶ野麦街道は古くは国司時代の役人の行き交う道もでありました。万葉の古歌では信濃の枕詞を「みすず」と言いますが、このみすずが熊笹だとも言われます。万葉集「東歌」にこんな歌があります。「信濃路は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましむな沓(くつ)はけわが背」(信濃路は、まだ新しく開かれた道だから、切り株を踏んで足を怪我することなど無いように、靴を履いて行って下さい。私の愛しい夫よ。)都から地方に赴任する夫の身を案じて歌った妻の歌と考えられます。この夫が歩いたのは、野麦街道だったのかもしれません。
高根村の歴史は、この1,300mに達する熔岩台地の原野において始まりました。今から一万数千年前、今よりも7~9度も平均気温が低かった氷期の終盤、日本列島が大陸と陸続きだった頃のことです。継子岳(ままこだけ/別称:日和田(ひわだ)富士)の大噴火もおさまり、モミやツガといった亜寒帯の針葉樹林があたりを覆つくす大地、そこへ獣を追って多くの人々がやってきました。彼らの使った石器が高根村(大部分は日和田地区)で多数発見されています。そんな大昔から人々の暮らしが飛騨の高地で、しかも寒冷期に営まれていたことに驚きを隠せません。
その後、縄文期に入っても高根は狩猟生活に重要な場所であり、日本列島東西の文化交流においても大切な仲介地点であり続けます。東西の石器・土器の分布・交流において高根村の位置は重要な経路となっていたのです。歴史時代に入ってからは、古代の「東山古道」(*2)、中世の「鎌倉街道」、戦国時代(*3)には武田勢の飛騨侵攻、近世の「江戸街道」、あるいは「塩の道」「鰤(ぶり)街道」(*4)、近代では「女工の道」と、その名を変えながら時代時代において人々の喜怒哀楽が行き交う街道の村であり続けました。しかし明治以降、全国に鉄路の整備が進むなか、飛騨においても昭和の初めになって、川筋に高山本線が開通、やがて自動車道路も普及します。物流・情報はそれらの新しい幹線に集中し、山の道は次第に忘れられていきました。かつて東西文化の交流を担った街道の歴史は、路傍にその面影を残すばかりです。
※2「日和田の如意」
(昭和23年11月26日付中日新聞より)「(日和田に)奈良時代に高僧が使用したとみられる如意(僧が読経や説法の際などに手に持つ棒状の道具)がある。奈良東大寺の寺宝と同年代(約千年前)のものと推定され、藤沢峠(小日和田集落から約4㎞)で蕨(わらび)根掘りの際に発見された。この峠は、中山道が開かれていなかった昔、奈良方面から信州路に入る往来があったことは各種の歴史的な資料から明らかで、当時奈良から信濃国国分寺(上田市神川)などへ高僧の旅行もあったと推定される。」(注:現在は人手に渡り、日和田にはない)
※3「内ヶ谷出土の糸印」
(高根村史より)「大正15(1962)年、内ヶ谷の畑を耕作中に糸印を発見した。糸印とは、室町時代、中国の明から生糸を輸入する際に取引の証とした印章である。高根出土の意義は、信濃・飛騨の通路として戦国時代に(高根の地が)使用されていたことを証するものである。同じ場所から「和同開珎」(708年(和銅元年)日本で最初に鋳造された通貨といわれる)も出土している。
※4「塩の道」「鰤街道」
飛騨では正月のご馳走としてかかせない鰤(ぶり)。昔は富山から塩漬けにして何日もかけて運ばれました。さらに、飛騨から野麦峠を越え信州に運ばれたものを「飛騨鰤」と呼び珍重したのです。冬、高山から野麦峠を越える道は雪が深く、人が背負って運びました。これを歩荷(ボッカ)と呼び、一人あたり60~100キロほどの荷物を担いだといわれます。飛騨高山と信州松本の間24里(96キロ)を8日間かけて運びました。
「高根村のダム開発」
そんな古の記憶の中に眠るような村に、最後に押し寄せたのは「開発」の波でした。戦後、昭和29年から始まったとされる高度成長は、急速に増える電力需要をいかに賄うかという問題を抱えるようになりました。もともと、山紫水明と謳われてきた日本は水力に恵まれ、水力資源を基礎として多くの産業が発達してきました。実際、昭和30年代初期までに開発され電力は水力によるものが主体でした。しかし、高度成長に加速がかかってくると、産業の発展はいよいよ目覚ましく、一般の人々の生活向上もあいまって電力需要は増加の一途をたどります。当時の急速な電力需要を既存の水力方式だけで賄うのは困難で、次第に電源開発は火力を主体として行われるようになりました。
ところが、火力発電は安全で経済的な発電をするために、昼夜問わず連続して運転する必要がありました。そこで、夜間の余剰電力を有効に活用するために従来の水力発電と組合せることが考えられました。これが「揚水式」と呼ばれる水力発電方式です。揚水発電とは、落差(高低差)のある2地点に貯水池(ダム)を設置して、昼間は高い方の貯水池(ダム)から水を流して発電をし、夜間は低い方の貯水池(ダム)に溜まった水を火力発電所の夜間電力を活用して高い方のダムに汲み上げ、再度、昼間の発電に利用するというものでした。これにより、火力の夜間電力を有効に活用しながら、昼間は水力でも安定的に発電が行えるようになったのです。
しかし、この揚水式の導入により、高根村で計画されていたダム開発は、より大規模なものへと変更されていったのです。昭和29年、高根村ではじめてダム開発の調査が開始された時点では、ダム・発電所建設は一か所だけで、その予定地の70%は国有林野でした。そのため、村の中でも特に大きな反対もなく、逆にダムや発電所の建設が村の財政を潤し、開発にともなう道路整備も村の発展に役立つのではと歓迎の雰囲気もあったようでした。
ところが昭和35年8月、現地に高根水力調査所が設置され調査が進められるなか、ダム計画は「揚水式」に変更、翌年2月には第二ダム・発電所の同時建設の計画が発表されました。これによると、第二ダムでは村の中心部にあたる日影・大古井両地区(*5)の56戸全戸と、小学校・中学校、農地20㌶などが水没することになり、当然、日影・大古井に住む人々は、ダム建設に激しく反対をしました。(*6)しかし最終的には「誠意ある補償」を条件に協力せざるを得なかったのです。
※5「日影・大古井両地区」
(高根村史より)日影は朝日の差す時刻が、対岸の集落より遅いことから付けられた村名であるが、夕方の日没時刻は遅いために、農作物の生育がよく、明治末年には、水田の造成がされている。特に、昭和三十六年には水田七町歩の土地改良事業が完成、収量も増え祖先代々の念願、「集落内でのコメの自給」ができるようになった。このような時期に起きたダム建設に集落の全住民は衝撃をうけた。水没に先だって、産土神の道後神社を上ヶ洞の道後神社に合祀、境内にあった樹齢千年と言われた大杉で50棟の神棚を謹製して氏子へ贈り、神木の神棚を産土神の記念として村を去った。大古井は、集落・耕地共に水没し、産土神の跡宮が水没集落と山裾の間に新設された国道上手に残っているのみで、かつての村の様子をうかがうことはもうできない。
※6「補償問題」
(高根村史より)(当時)村内には集落共有の原野が多く、村民は肉牛の放牧とワラビ粉の生産で収益をあげていた。水没者は村外へ移転することでこれらの環境も失うため、その補償が問題となった。ワラビ粉以外、これといった換金作物のなかった村人は、労力以外であまり経費のかからない「はな」(ワラビ粉)を生産し、季節に入ると家中が睡眠時間も割いて山の水車小屋に泊り込んで働く人も多かった。ワラビ粉は食料としての自家消費もされたが、大部分は蕨(わらび)縄(すじ縄、蕨の繊維で作った縄)と共に販売され、食糧や日用品の購入に充てた。ワラビ粉の用途は主として織物や和傘の製造に糊の原料として使用された。
結果的に住家の移転は66戸、買収された土地は256.9㌶、小学校・中学校、教員宿舎、神社、寺院などが水没し、当時の飛騨川流域のダム開発において最大の犠牲を払うことになったのです。さらに移転者のほとんどは村外に移転し、その数は65戸350名。このため高根村は全世帯の16%、人口の16.5%を失い、過疎化に大きく拍車をかけることになりました。そうして昭和44年3月下流の高根第二ダムが、続いて9月に上流の高根第一ダムが満水、営業運転を開始したのです。
その間、湖底に沈む小学校・中学校は移転、以前の木造の校舎から鉄筋コンクリート造に建て替えられ、体育館・講堂などを含め近代的な 設備に一新、周辺道路や橋も大幅に拡幅・舗装と立派に付替えられ、地域発展の一助になったのも事実でした。
父が高根村へ単身赴任したのは、その頃のことです。
「ダム開発の頃の高根小学校」
開発以前の高根村は、日影・大古井をはじめ十四の集落に分かれていました。それぞれが山間のわずかばかりの土地を求めて開かれているため、互いに行き来するのも大変です。そこで、小学校は日影・大古井地区にあった高根小学校を本校として、中之宿(なかのしゅく)・阿多野郷(あだのごう)・野麦・日和田の四つの地区に分校がおかれていました。その後、分離・統合を経て、ダム工事が始まった頃には、高根小学校、阿多野郷分校、野麦分校、そして日和田小学校がおかれ、村の子供たちはそれぞれの校舎で勉強をしていました。当時(昭和40年)の村全体の児童数は192人でした。
そのころ、積雪等での通学の困難から冬場だけ開校される「冬季分校」が高根村にはありました。黍生地区の「黍生冬季分校」もその一つです。昭和39年の12月から翌年3月までの4ヶ月間、臨時教員として黍生冬季分校に赴任をしたある教師の日誌、「高根小学校・黍生冬季分校日誌」が残っています。その抄録を読むと、新米の臨時教員が 村の人々と家族同様につきあいながら学校を守っていくようすが伺えます。村人総出で学校のストーブに薪を運んだり、余って困るほど食べ物の差し入れが届いたりしたこと。 昼にはお母さん方が教室に入って来て授業を見たり、夜には「酒を飲みに来い」との誘いがお父さん方からあったりしたこと。小さな弟を背負って学校に来る男の子がいたこと。村中が親類のような距離感の中で苦労も多かったようですが、厳しい環境で学ぶ子供らに愛着と教育の重要性を強く感じたことが素朴に書かれています。
昭和40年5月にダム工事が始まると、集落の移転が始まり転出する児童、工事関係者による転入児童が多くなります。転出・転入は均衡の形をとり、昭和44年のダム完成まで児童数全体に大きな変化はありませんでした。しかし、工事関係の労務者の入村によって村の人口は倍以上に増加したのです。そして工事が終わると、工事関係の人々は、家族を連れてまた村を去ります。ダム完成の年、150人いた本校の児童は、翌年(昭和45年)には89人へと激減します。その後、児童数が増えることは二度とありませんでした。
村からダム開発の喧騒が通り過ぎ、新しいダム湖が静かに山々の緑を映すころ、父は高根小学校に赴任しました。受け持ったのは5年生全員の15人。各学年クラスは1つだけです。5月に村内の子の原(ねのはら)高原に遠足に出かけていますが、まだ雪渓が残っていました(写真①)。12月のお楽しみ会、ストーブを囲んだ窓の外も雪景色です(写真②)。
翌46年、6月ころでしょうか、子供の背丈をゆうに超える「大フキ」の写真です(写真③)。「北海道や東北には、巨大なフキが自生し、この野生種を栽培したのが有名な秋田フキです。葉の下で雨宿りができるほど大きなものですね。高根でもこんなに大きなフキが生えるのは、気候が北海道や東北に似ているからなのかもしれませんね。」そんな話を父は子供たちにしたのでしょうか。小学校のすぐ脇では、まだ新しい高根第二ダムの「スキージャンプ台」と呼ばれた放水路から、勢いよく雪解け水が解き放たれています(写真④)。
そして47年、単身赴任最後の年。8月は校庭でテント合宿(写真⑤)、遠足は隣村(朝日)の秋神へ(写真⑥)。歴史の授業風景(写真⑦)。紅葉の季節に、写真は白黒からカラーへと変わります。遠くから見下ろした小学校(写真⑧)。美しい高根の紅葉を記憶に留めるかのように何枚ものカラー写真を残しています。しかし、12月、最後に撮ったのは真っ白な雪だるまの写真でした(写真⑨)。
「高根小学校、その後」
昭和から平成に時代は変わり、全国の市町村合併の流れのなか、高根村は高山市と合併しました。
その間も、高根小学校の児童数は減り続け、ダム開発時のピークで168人いた本校の児童数も、平成18年にはわずか16名となりました。そして平成19年、高山市朝日町(旧朝日村)の朝日小学校へ統合、明治7(1874)年に開校した高根小学校は、その133年の歴史に幕を降ろしたのです(かつて高根小学校から分離した日和田小学校も同時に閉校し、旧高根村から小学校は無くなりました)。
当時、父の住んだ教員住宅もすでになく、跡地の高台からはダム湖を見下ろすばかりです。昭和47年、父宛に届いた知人からの暑中見舞いを見返すと、住所はすべての集落が沈んだ、番地表示の無い「高根村大古井」が記されていました。
父は単身赴任を終えた後、私が小学生になるとよく飛騨のあちこちのダムへ連れて行きました。時には泊まりがけの家族旅行で、長野県の黒部ダムにまで足を伸ばしたこともあります。一度も飛騨を出ることなく教員になった父は、やがて訪れた高度成長の中で、次々と故郷の地に建設される巨大ダムをどのように見ていたのでしょうか。大都市の電力需要を支える大規模開発の、その一端に触れるような気持で将来への飛躍を感じていたのでしょうか。今となってはダム湖を見つめる父の表情がどうであったかなど、思い出すこともできません。
当時の父の年齢を越えたいま、静かに水を湛えるダム湖畔に立ち、湖上に吹き行く風の音に、父の声をさがすばかりです。