東海道、中山道、甲州街道と歩いてきた。それらの旅に共通したのは概ね西へ向かって歩いたということである。東京から西へ向かうは京都へ向かうということである。昔で言えば畿内(きない)へ向かうということだ。畿内とは都の周辺という意味も持つ。しかし、今回の旅はその反対、東へ向かう旅だった。正確に方角を言うなら東北。
 話は変わるが判官びいきという言葉がある。不遇な身の上や弱い立場の者に同情して肩を持つことを言う。不遇をかこった源義経の故事を語源とすると言われるが、昔読んだ本にこんな話があった。江戸時代における源義経の人気はそうとうなもので、義経とはまったく関係の無い芝居で九郎判官(源義経)が意味もなく突然登場し、そしてこれまた意味もなく退場していく、というものである。
 語り:「その時奥の一間より現れ出でたる義経公!」
(舞台後方の襖が開き、ゆっくりと義経が登場)
 義経:「さしたることもなかりせば、そのまま奥にぞ入り給ふ(※注1)
(義経、再び奥に入り戻る)
(※注1)ちょっと出て来てみたけど、大した用事もないので、そのまま奥に戻らせていただきます。
 それだけで当時の観客は拍手喝采で大騒ぎであったと言う。そしてそのような演出は東北地方でより人気で、現在でも旅一座・地歌舞伎で多く見られるという話だ。義経が兄の頼朝に追われて東国に逃れ、その先に様々な伝説を残したのはあらためてここで語るまでもない。
 さて、日本橋を出発し、最初の宿場千住を過ぎるあたりから今までの旅とは違うものを感じ始めた。松尾芭蕉は「おくのほそ道」の初日にこう書いている。
 「千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」(千住という所で舟をあがると想像もつかない前途三千里の思いが胸に迫り、儚い人生とはいえ別れに涙が止まらない)
 芭蕉の泣き言がせっかくの旅の始まりに水を差す、、。
 日光の杉並木を始めて歩いた。戊辰戦争の時、官軍が幕府軍へ放った砲弾跡の残る杉の木も見た。白河の関を越えると、戊辰戦争の記憶を残す碑がそこここに見られるようになる。仙台・会津を始めとした列藩同盟が、薩長に加え大垣(岐阜)・忍(埼玉)の藩兵と戦ったのだ。双方の慰霊碑が多く残る。教科書で知っていたはずだが、他所の軍隊が東北にやってきて戦ったのだという印象をあらたにする。
 白河城下を過ぎ、奥州街道のさらに先、仙台を目指す道と、会津街道との追分まで来た。そこで僕は五街道をすべて歩き終えることになった。女石と呼ばれるその地にあるひときわ大きな仙台藩士の慰霊碑にこうべを垂れ、左に曲がり会津街道に入ると急に夏の夕立のような大粒の雨が降って来た。軒を借り雨宿りをしていると間もなく雨は止み、青空が広がった。季節も異なり意味も違うが「催涙雨」という言葉を思い出す(後で調べた所、戊辰戦争白河口の戦いは七夕を挟む夏に戦われている)。青空に誘われるように会津街道を進み最初の峠を越えると、余計な感情を削ぎ落としたような、今までの旅とはあきらかに違う朴とした印象の風景を知ることになる。行ってみなければ分からないもの、空気感というのか。そんなものが確かにあると、さらにはそんなものがあると上面の口先だけで今まで言っていたのだということに気づく。
 しかし、古来旅に生きた文人墨客と呼ばれる人たちはただの現実逃避のおっさんだったのではないか、そんな疑いはまだ晴れない。スタート地点で泣き言をもらしたおっさんも、純粋に知ることを求めた真の旅人だったのか。
 それを確かめるために、僕はまだ歩かねばならない
(※注2)。旅は今始まったのだ。

2017年 春 旅人しるす

 
(※注2)現実逃避ではありません、、多分。
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